大変動期における政治学の挑戦
解題
私たちはある意味、認識論上の分裂の最中にあるといえます。メディアやSNSからは世界中で戦争が広がり、大きな政治的経済的変動が起きていることが雪崩のように注ぎ込まれてきます。AIの驀進に脅威を感じつつも、しかし私たちのうちの大多数の日常はそう変わってはいないはずです。確かに物価は上がってはいるものの、失業率があがっているわけでもありませんから、学校や職場に通いという日常にさしたる変化はない。
変化は地平線の向こうから現れつつあるものの、その光はまだ足元に届いているか、どうかという感覚。歴史を紐解いてみても、フランス革命時のフランスの農民の大半は何が起きているか知りませんでしたし、シベリアの奥地の農民がロシア革命を知ったのは革命から二年後といわれています。当時に比べ飛躍的にコミュニケーション技術が発達した現在においても、大きな変動がわれわれの日常の存在に絡んでいるという感覚はなかなか得られないものです。でも、世界は確実に変わっている。
いまの大変動を引き起こした要因の一つとしてあげられるのはいうまでもなく2021年からはじまったロシアのウクライナ侵攻でしょう。多くの社会科学者は、まさか21世紀になって「古典的」ともいえる大規模地上戦が再び起こるとは考えていませんでした。この侵攻が起きた時、国際政治学者の中西寛さんは、イギリスの歴史家E.H.カーの『危機の20年』を読むことをすすめていました。1939年に書かれた本書は 、第一次世界大戦の終結から、第二次世界大戦の勃発(1939年)に至る「戦間期」の20年間を分析し、なぜ国際社会が二度目の大戦という悲劇を回避できなかったのかを分析しています。「われわれはこの戦間期にいるのかもしれない」。中西さんのこの視座はその後の国際政治の変動を考察する上でも大きな意味をもっています。
今回のletterで紹介するのは、近年の政治学がこの大規模な変動を捉えられなかったことを批判するエッセイです。著者は政治学者ヤシャ・モンク。邦訳に『民主主義を救え!』(吉田徹訳)という、いまの大変動を包括的にかつわかりやすくとらえる好著がある、気鋭の学者です。以下、このヤシャ・モンクのエッセイの仮訳をしておきました。
文句は近年の政治学の主流を占める計量政治学が、現状を予定調和的均衡に求めるあまりに、トランプ大統領の誕生をはじめとする大変動を全く捉えることができなかったと批判しています。日本政治についても、ここ数年のポピュリズムの台頭とある意味過去の自民党の否定形としての高市政権の誕生を、とりわけ計量系の政治学が説明できていたとはとてもいえません。それは、冷戦崩壊後の政治学(だけではなく社会科学全般)が、「歴史の終わり」とでもいっていいような楽観的な予定調和に陥っていたからです。まさにカーが『危機の20年』で描いたような100年くらい前の革命と戦争の時代を知らないわれわれの政治的想像力の弱さが、この楽観主義をもたらしていたのです。
しかし時代は変わりました。モンクが力強く訴えているように、予定調和なき時代の政治学は、もっと歴史に目を向け、もっと大胆な論争に挑んでいく必要があります。政治学における方法論的転換への挑戦がいまこそ求められているのです。では、以下の仮訳をよければ読んでください。
なぜ専門家は未来予測を間違えるのか
ヤシャ・モンク
ドナルド・トランプが初めてアメリカ合衆国大統領に就任してから、もう10年近くが経とうとしている。われわれは彼がアメリカの政治システムを驚くほど巧みに支配していることにすっかり慣れてしまい、当時それがどれほど衝撃的で予想外だったかを忘れがちだ。私が10年前、大学院を卒業したばかりの頃に主張したように、この失敗はジャーナリズム界に限ったことではなく、社会科学者たちもまた、ひどく不意を突かれたのである。
ドナルド・トランプは、ついにアメリカにおける支配力を弱めつつあるように見える。彼の人気は過去10年間で最も低く、来る中間選挙では大敗を喫する可能性が高い。間もなく、人々の関心は2028年の大統領予備選挙へと移るだろう。
だがトランプ氏の台頭を予測できなかったわれわれ皆の失敗については、最近、おそらく予想しえなかった文脈で私の頭をよぎっている。社会科学者たちがAIが経済と民主主義をどのように変革するかを研究する中で、彼らはポピュリズムの台頭を見逃した。その、同じ過ちを繰り返しているのだ。つまり、断絶的な変化の瞬間に、彼らは最近のデータを無批判に見て、将来何が起こるかを予測しようとしている。
—ヤシャ・モンク
(2008年の:訳者)世界金融危機の後、経済学者たちは厳しい問いに直面した。なぜ差し迫った世界経済の崩壊を見逃してしまったのか?これほど大規模なシステム危機を予測できなかったのなら、自分たちの精緻なモデルは一体何の役に立ったのか?
経済学者が世界金融危機を予測できなかったのと同様に、政治学者も一連の重大な政治的変動を予測できなかった。最も明白な例はドナルド・トランプの驚異的な台頭である。しかし、話はそれだけにとどまらない。近年、政治学者は安定をもたらす力を過大評価し、ブレグジット、あるいはロドリゴ・ドゥテルテがフィリピンにもたらした混乱、ポピュリスト政権がポーランドの民主主義に及ぼす深刻な脅威など、数々の事態を予見できなかったのだ。
確かに、政治学者にこうしたあらゆる展開を予測することを求めるのは無理があるだろう。まず、学者は予測を専門とする職業ではない。そして、予期せぬ事態というものも存在する。ありそうもないことが実際に起こった場合、社会世界の正確なモデルでさえ、次の歴史的局面を予測することはできないのだ。
しかし、例えば、半世紀で最も衝撃的なアメリカの政治的出来事の一つが目前に迫っているかもしれないということを、学者たちが認識できなかったことを、些細なことで片付けてしまうのは間違いだろう。その一年前にほとんどの政治学者は、トランプのような人物が共和党の指名を獲得し、本選挙で互角に戦えるなどという考えを、あっさりと否定していたはずだ。さらに悪いことに、この分野で主流となっている理論は、実際に起こったこととはほぼ正反対のことを予測していたように思われもした。
例えば、大統領候補指名に関する近年の最も評価の高い著作の一つの著者マーティ・コーエンとその共著者は、そのタイトルにあるように「 党が決定する」と主張している。彼らの見解では、党のエリートたちは支持表明や選挙資金提供を利用して、お気に入りの政治家を予備選挙で支援し、事実上、承認された候補者を事前に選別している。しかし、組織的な支援をほとんど受けていない部外者が民主党予備選挙でヒラリー・クリントンに激しく抵抗し、さらに組織的な支援がさらに少ない、より部外者的な人物が競争相手を圧倒して共和党の大統領候補となった。つまり、支配的な理論が明確な予測をしているように見えた分野でさえ、現実は私たちが知っていると思っていたことを覆したのである。
一体どうしてこんなことが起こったのだろうか?
過去30年間、政治学者は、特に比較的安定した時期における政治世界の仕組みの理解において、目覚ましい進歩を遂げてきた。アメリカの政治はその好例である。司法研究者は、最高裁判事の過去のイデオロギー的傾向が、将来の判決をどの程度予測できるかを明らかにしてきた。一方、議会研究者は、議員の所属政党、過去の投票行動、最大の献金者といった要素に着目することで、議員が審議中の法案にどのように投票するかを高い精度で予測することができる。
この進歩の大部分は、相互に関連する3つの方法論的転換によって説明できる。
まず、政治学者はかつて、フランス革命のような重大な出来事から、議会や地方の労働組合といった特定の環境に至るまで、政治世界の重要な側面を記述、解釈、説明することに関心を持っていた。しかし今日では、対照的に、彼らの明確な希望は、主に因果関係に焦点を当て、政治生活に関する一般的な規則性を推論することにある。事実を記述するのはジャーナリストの仕事だと、ほとんどの政治学者は考えている。特定の出来事を説明するのは歴史家の仕事だと彼らは主張する。明日、ある政治体制に起こりうる極端な変化について推測するのは評論家の仕事だと彼らは警告する。政治学者は主に、所得や教育といった変数が投票行動などの結果にどのように影響するかを明らかにした。
第二に、かつて政治学は、質的なアプローチを誇りとする学者たちが中心だった。歴史と現代社会の複雑な事情に精通した彼らは、公文書館、政治家や政策立案者へのインタビュー、あるいは特定の組織や地域社会に関する民族誌的研究から実証的な証拠を集めていた。それとは対照的に、今日では政治学者は主に量的手法を用いてる。彼らのほとんどは、データセットの構築と統計的手法を用いて、特定の要因群が、彼らが関心を持つ結果とどのように関連しているか、あるいは、できれば、結果の原因となっているかを特定することに、多くの時間を費やしています。
第三に、政治学者はかつて、政治に関する重要な問い、すなわち社会革命はどのようにして起こるのか、民主主義はどのような状況下で安定するのか、といった中心的な問いによって研究分野を定義していた。しかし今日では、対照的に、彼らは一連の方法論によって自らの学問分野を定義している。政治学と認められるためには、重要な政治的問いに対する最良の答えを提供するだけではもはや十分ではなく、むしろ、厳格な方法論的基準をクリアしなければならないのである。
こうした方法論的転換は、平時における世界の仕組みを理解する上で大きな成果をもたらしてきた一方で、量的データへの過度の依存、一般的な規則性の解明に焦点を絞った狭い視野、そして方法論的な制約によって、平時が終焉を迎えた場合に何が起こるかを体系的に考察することは非常に困難になっている。そのため、トランプ氏の出現を予見できなかったことは、現代政治学の営みにおける容易に解決できる欠陥ではなかった。むしろ、それは政治学の中核的な理念そのものに起因する結果だったのである。
マサチューセッツ州ケンブリッジでやかんの水の沸騰点を記録すれば、ほぼ確実に摂氏100度という値が得られるだろう。シカゴやワシントン、サンフランシスコで同じ手順を繰り返しても、結果は変わらない。やがて、数百、数千もの観測データが得られるだろう。それらはすべて、小学校で習った明白で不変の真理、つまり水は100度で沸騰するという真理を裏付けるように思える。
しかし、真実はそれほど明白で不変なものではない。もし私が愛用のやかんをボリビアのラパスに持っていったとしても、水は90度に達する前に沸騰してしまうだろう。もし私がどうにかしてそれをエベレスト山頂まで運んだとしても、沸騰するのは70度くらいだろう。
自然科学であれ社会科学であれ、一般的な法則には「適用範囲条件」が存在する。これらの法則は、特定の背景条件(この場合は気圧)が成り立っている間は世界を正確に記述する。しかし、そうした背景条件が変化すると、想定される法則は修正、限定、あるいは放棄されなければならない。
この点は社会科学者にとってはもちろん周知の事実である。しかし、私たちは範囲条件の重要性を抽象的に理解している一方で、それが私たちの主要な前提の多くを無効にし、歴史における稀少ながらも極めて重要な転換点を体系的に見失わせる可能性について、真剣に考えることはほとんどない。
次の仮説を考えてみよう。アメリカの政党の幹部が候補者を選ぶ権利を持つ。基本的な民主主義規範を攻撃する過激な候補者は、アメリカ(あるいはポーランドやスウェーデン)の国民から大衆的な支持を得られない。裕福な国が自由で公正な選挙によって少なくとも2回の政権交代を経験していれば、自由民主主義は存続する。これらの仮説はそれぞれ、過去50年間に得られた微妙かつ広範な実証的証拠によって裏付けられている。だが、これらの仮説はすべて、過去半世紀にわたって真実であり続けてきたため、私たちの目には見えない範囲の制約を受ける可能性があり、そして今、その制約が崩れつつある。
政治家への国民の信頼が過去最低水準にまで落ち込んだ今、政党は予備選挙の有権者に対して依然として以前と同じ影響力を持ち続けるのだろうか?民主主義という理念への関心が薄れつつある今、有権者は依然として過激な候補者を避けるのだろうか?そして、建国以来初めて、一般市民の生活水準がわずか1世代の間にほとんど向上していない状況下で、裕福な自由民主主義国家は今後も安定を維持できるのだろうか?
自然科学者は、ある程度、研究結果の適用範囲を体系的に検証することができる。例えば、気圧が水の沸点に影響を与える可能性があるという理論的な根拠があり、エベレスト山頂で実験を行うことが現実的でない場合、実験室で人工的に気圧を下げることができる。一方、政治学者は利用できる手段がはるかに少ない。生活水準が上昇しなくなったときに自由民主主義が不安定になる可能性があるという理論的な根拠があることを認識していたとしても、理論の適用範囲を検証する人工的な実験を行うことはできない。
明白な教訓は、政治学者は自らの研究結果の一般適用性について、もっと自信を持つべきだということだ。しかし、それほど明白ではない教訓は、より根本的なものだ。理論の適用範囲を体系的に決定することが決してできない分野においては、一般的な規則性の発見は、見た目ほど価値がないかもしれない。例えば、高いGDPが、未知の適用範囲の下で自由民主主義の安定性を高めることを発見したとしても、結局のところあまり役に立たない。それは、なぜ民主主義が歴史的にアメリカ合衆国で確固たる地位を築いてきたのかを完全に説明するものでもなければ、どのような状況下でアメリカの民主主義が崩壊する可能性があるのかを教えてくれるものでもないからだ。
もう一つ問題がある。統計的手法の活用と因果関係の説明への注力によって、政治学は説明範囲を拡大し、先入観に左右されにくい研究結果を生み出すことができた。しかし同時に、視野を狭め、社会科学的な研究結果に偏りをもたらす危険性も孕んでいる。
経済については、文化に比べて質の高いデータを収集しやすく、したがって「厳密な」因果関係の主張をすることも容易である。そのため、社会科学は現在、文化的な説明よりも経済的な説明を好む傾向にある。同様に、議会での投票のように、数えやすく分類しやすい頻繁な出来事については、政治革命のような稀で扱いにくい出来事よりも、質の高いデータを収集し、因果関係の仮説を検証しやすい。そのため、社会科学は現在、遠い過去の大きな転換点よりも、近年の日常的な出来事に焦点を当てる傾向にある。
どの方法にも長所と短所がある。現在の手法は、比較的安定した時期を研究するのに適しているが、比較的不安定な時期を理解するのには向いていない。政治学における方法論的転換が、まさにその転換によって必要とされる新たなツール群が、私たちの周囲で起こっている根本的な変革を見えなくしてしまう可能性が最も高い時期に起こったというのは、皮肉なことである。
アテネ、ソウル、ストックホルム、そしてワシントンでは、ほんの数年前まで非常に安定しているように見えた政治体制が、突如として大きな緊張状態に陥っている。つい最近まで穏健派政党が全権を握っていた国々では、自由民主主義の根幹を揺るがそうとするポピュリスト勢力が急激に台頭している。世界中で、自由民主主義は深刻な危機に突入しつつある。
政治学にとって今最も喫緊の課題は、この危機を理解し、おそらくは潜在的な解決策を示すことであるように思われる。しかしながら、現在の方法論的正統性は、この課題を特に困難にしている。特定の政治的局面を理解する唯一の方法が、統計を用いて広範な因果関係を主張することであるならば、作用している力を説明するためには、過去の類似した展開から得られたデータが必要となる。しかし、これによって、真の先例のない展開について何かを言うことは事実上不可能になる。定義上、その原因や結果を説明できる過去のデータは存在しないからである。
トランプ氏はアメリカ共和国にどのような損害を与えるだろうか?どのような状況下で、自由民主主義のこれまでの安定は崩壊し、我々の政治システムに対する深刻な脅威が生じる可能性があるのだろうか?
現在の方法論的基準によれば、それらの問いは事実上、定義上存在しなくなってしまったと言える。
本質的に憶測的な大問題について語れないことは、政治情勢が比較的平穏で、近年の出来事が近い将来を予測する上で妥当な指針となる平時であれば、払うべき代償と言えるかもしれない。だが今やわれわれは平時とは程遠い時代に生きており、未来は近年の出来事とは大きく異なるものになる可能性があることが、ますます明らかになってきている。
政治学者は今、厳しい選択を迫られている。自由民主主義の運命が危ぶまれる中で、既存の方法論に固執し、沈黙を守るか。それとも、自由民主主義の現在の危機を引き起こした原因と、その危機を克服する方法を理解しようと努めるか。
これが容易なことだと装うつもりはない。不確実な時代に世界を理解することは、困難な課題である。しかし、われわれは多くのツールを備えているにもかかわらず、ほとんど活用していない。例えば、過去に民主主義が深刻な危機に陥った時や、何世紀にもわたって安定していた政体が突然崩壊し始めた時など、歴史にもっと目を向けることができる。政治体制に不満を抱く有権者や、首都を席巻する新たなポピュリストたちについて、もっと深く理解することに時間を費やすことができる。また、過去に迫りくる危機がどのように回避されたのかを研究し、吠えなかった犬たちにもっと注意を払うこともできる。
どのような方法を選択するにせよ、われわれはせいぜい二次的な重要性しかない一般的な規則性を証明するという安易な道に逃げ込むのではなく、この時代の最も差し迫った政治的問題にできる限り最善の形で答えることを最優先事項とすべきです。後から振り返ってみれば、このより幅広い方法を用いて導き出した理論の中には、特に時折大胆な予測を試みた場合、間違っていることが判明するものもあるだろう。しかし、真に意義のある存在でありたいのであれば、周囲でますます恐ろしい出来事が展開していく中で、私たち自身をその渦中に閉じ込めておくよりも、時折間違えたり、あるいは大げさに騒ぎ立てたりする方がましなのである。
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